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おそらく父が入営する直前に撮られた写真。
歳をとってから出来た子で、毎晩一合だった祖父の晩酌がその夜から二合に増えたらしい。
それから間もなくして祖父は胃を患い、終戦を待たずに他界した。

(父は一人っ子で写真の子供たちはたぶん近所の子)















1972年8月に、3週間かけて稚内から襟裳岬まで一人で歩いた時の写真。
痩せてガリガリになってる^ ^

歩き始めて3日目に重いので荷物を送り返してしまい、夜になると寒くて眠れなかった。
工事中でまだ開通していない大雪山道路273号線を越える時は、標高1,000mの三国峠で陽が暮れて、次の村までだいぶありヒグマが怖かった。それで村に着いたら宿が無く、夜露を凌ぐために酒を飲んで電話ボックスに入ってポンチョ被ってうずくまって寝たけど、余りに寒くてボックスの外にベッドの幻を見たなあ。

終盤、行程が残り少なくなってきた頃、朝昼夜と通して歩き、東の空が明るくなってくる時に潮騒が聴こえて来たのは嬉しかった!でもそのまま歩き続けた翌日は、1時間かけて1キロも進まなかった。その夜の宿は本当にありがたかった。

当時の北海道は真夏でも夜はストーブを焚いていた。
バス停の小屋で寝ていた僕を、我が家においでと泊めてくださった自転車のお姉さん!そこで初めて知った干鱈の辛さ。豪華な手作りの一品を追加してくださった宿屋のご主人!お弁当にと枝豆を茹でて袋いっぱい持たせてくれたおばちゃん!ノックして中に入れてくれないかと頼んだら怖がって走り去った仮眠中のトラックの兄ちゃん!出遭わなかったヒグマ!そして満天の星空!
皆さまありがとうございました‼︎








君たちに僕の考えを話そう
僕らが子どものころ
目に写る世界は新鮮で、すべてが新しかった
やりたいことは何でもできた

ところが年をとってくると疲れてくる
人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう
世界の美しさを見ようとしなくなってしまう
大部分の人は夢を失っていくんだよ

でも、僕はいつまでも子どもの心を失わずに
この世を生きようと思う
不思議なもの、すべての美しいものを見るためにも

いいかい、
君たちはやろうと思えばなんでもできる
僕と別れたあとも、そのことを思い出して欲しい
やろうと思えばなんでもできるんだ


(植村直己冒険館内の展示パネル)



昨日、豊岡市にある「植村直己冒険館」を訪ね、植村さんの記録映画や遺品、記念品などを閲覧した。
1979年の春。植村さんが北極点ーグリーンランド縦断から帰った翌年、大阪で開かれた毎日新聞主催のイベントに植村さんが来られるというので、当時「きょうと学生新聞(現:『GAKUSHIN』)」の編集を担当していた僕は、この機会にと旧探検部の友人が運転する車で家族と出かけ、ぶっつけインタヴューをやったことがある。なにぶんにも毎日の「シークレットサービス」がそばに居るもので、ほんの10問たらずのインタビューで、内容も、例えばアマゾンで食べたピラニアは美味かったですかとか、今から考えると恥ずかしいほどしょうもないものだったけど、植村さんは邪魔臭がらず親切に笑顔で答えてくれた。

そのあとで、植村さんにお願いして、二歳になったばかりの長男の真郷との記念写真を撮らせていただいた。
植村さんが長男を抱き上げた瞬間に、TVカメラが回り記者のストロボが幾つか光った。当の長男は抱かれていることより、植村さんの胸の大きな赤いリボンが気になって仕方がないようで、ずっとリボンを掴んでいた。

この5年後、植村さんは帰らぬ人となった。






1年半前に買ったままで仕舞ってあったハンディスキャナーを試してみるが、上手く録るのは難しい。
これは複写したほうがよさそう。






親父、40歳の頃の写真。




 1986年6月、34歳だった僕は「京都音楽文化協会」というところにちょくちょく遊びに行っていて、そこでお世話になっていた局長から、「來田君、タヒチへ行ってみんか?うちみんな忙しくて誰も行けんから」と、思いがけない提案を頂いた。
旅費はタヒチ観光局が出してくれるという結構なお話で、対象は新聞記者やツアー会社の社長たち。当時僕は京都で金持ち向けの情報誌を発行していたので、少しぐらいは貢献できるかなあと思って、謹んでお受けした。
人生たまに思いがけない良いことがあるもの。...

ただ、帰国してから丸1か月は頭の線が切れてしまって、仕事が全く手につかなかった (^^;;

当時の紀行記です。風景綺麗ですよ^^
http://www.koroda.com/tahiti.html
和歌山県那賀郡貴志川町井ノ口という、山の入り口の地で7歳まで育った。

南隣に日本人の5人家族、北隣に朝鮮人李さんの11人家族が住んでいた。羽振りの良い株屋時代の、一番町での意識が抜けきれない父方の祖母は、空襲で全てを失ってその地に移り住んでからも、朝鮮人の家の隣に住んでいるとういことを忌まわしく思っていたらしい。

僕が2歳になる頃、祖母が他界し、家族だけで質素に行われたお通屋の席に、李さんの奥さんが来て焼香してくれた後、「おばあちゃんは、ずっと私らを嫌ってたなあ…」と、最後まで打ち解けられなかったことを残念そうに話しながら目を潤ませていたという。

兄弟のいない僕は、よく李さんの家へ行って遊んだり、そのまま昼飯を、主の隣で食わせてもらったりしていた。
この3家族を合わせた小社会では、日本人がマイノリティーで、喧嘩して負けると「ヤーイ日本人日本人」というノリで、そう言われた僕は、「違う!僕は朝鮮人や!」と叫んで歯向かっていたと、生前に母から聞いた。

7歳になった春、父の仕事(高校教員)の都合で、和歌山の市内に転居した。
貴志川町で好き放題して幼年期を過ごした僕は、町の暮らしに馴染めず、鬱鬱として何年間も過ごすことになるが、小学校に入って初めて、ここで朝鮮人が不当な扱いを受けている事を知った。
そして、「チョーセン」という言葉は、そのまま僕の心に対する最大の侮辱の言葉になった。
還暦を過ぎた今も、そういう言葉を遣う奴は許せない。







(食べさせてもらってるのが僕。父來田信一郎撮影)




南太平洋で、祭りや儀式などで広く常飲されている向精神性飲料「カヴァ」。
アルコールは含まないものの酩酊感があるというが、僕は何杯飲んでも酔わなかった。
でも、ステージで現地の人々に交じってアドリブで踊った「阿波踊り」が大うけして、翌昼に催された支配人のご家族の食事会に、二人の息子たちと招かれ、白い浜辺で名物のロボ料理をご馳走になった(^^)


〔アルバムシリーズ 1995年8月のフィジー〕

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