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和歌山県那賀郡貴志川町井ノ口という、山の入り口の地で7歳まで育った。

南隣に日本人の5人家族、北隣に朝鮮人李さんの11人家族が住んでいた。羽振りの良い株屋時代の、一番町での意識が抜けきれない父方の祖母は、空襲で全てを失ってその地に移り住んでからも、朝鮮人の家の隣に住んでいるとういことを忌まわしく思っていたらしい。

僕が2歳になる頃、祖母が他界し、家族だけで質素に行われたお通屋の席に、李さんの奥さんが来て焼香してくれた後、「おばあちゃんは、ずっと私らを嫌ってたなあ…」と、最後まで打ち解けられなかったことを残念そうに話しながら目を潤ませていたという。

兄弟のいない僕は、よく李さんの家へ行って遊んだり、そのまま昼飯を、主の隣で食わせてもらったりしていた。
この3家族を合わせた小社会では、日本人がマイノリティーで、喧嘩して負けると「ヤーイ日本人日本人」というノリで、そう言われた僕は、「違う!僕は朝鮮人や!」と叫んで歯向かっていたと、生前に母から聞いた。

7歳になった春、父の仕事(高校教員)の都合で、和歌山の市内に転居した。
貴志川町で好き放題して幼年期を過ごした僕は、町の暮らしに馴染めず、鬱鬱として何年間も過ごすことになるが、小学校に入って初めて、ここで朝鮮人が不当な扱いを受けている事を知った。
そして、「チョーセン」という言葉は、そのまま僕の心に対する最大の侮辱の言葉になった。
還暦を過ぎた今も、そういう言葉を遣う奴は許せない。







(食べさせてもらってるのが僕。父來田信一郎撮影)

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